「聖である霊」と呼ばれている方が来て下さっているのだそうです

私に
御顔を向け、
憐れんでください。
 
御力を
あなたの僕に
分け与えてください。
詩篇86:16
 
 
使徒たちが、
「私どもの
信仰を
増してください」
と言った。
ルカ17:5
  
 
(ローズンゲン日々の聖句1/15;水)
 
 
私たちは、
私たち自身の
信仰が増し、
力を得ることを
願います。
 
 
しかし、
イエスは
信仰は
あるかないかであり、
 
主人に対して
「役に立たない者」であることを
認め、
言い表していく
(ルカ17:10)
方向だと
言っていらっしゃるようですね。
 
自分を、
主人に対して
「役に立たない者」と
認めて行く方向は、
 
また、
自分を
マタイ5:3の
「心(霊)の貧しい者」と
認めて行く在り方に
通じ、
 
 
ロマ書7:24の
「私は、
ほんとうに
みじめな人間です。
 
だれが
この死の、
からだから、
私を
救い出してくれるのでしょう」
との、
パウロの叫びにも
通じているとも
思えます。...
 
「生まれたときからの私」
という
「霊」は、
 
何処まで行っても、
あの方にとって
「役に立たない」、
「霊が貧しい」もの
なのでしょうね。
 
 
だから、
首にされるしかない、
処刑されるしかないもの。
 
それゆえに、
その者を救い、
我が子とするために、
御子である方を
処刑することを
計画しておられたのでしょうね。
あの方は。
 
「生まれたときからの私」という「霊」の
信仰が増し、
 
力を得て行く
方向ではなく、
 
これを
「役に立たない者」、
「死んでしまっている者」と
認めて(計算して)、
 
これを見捨てて、
 
御子である方を通して、
新しく
派遣されて、
来て下さっている
「聖である霊」と呼ばれている方を
お迎えし、
 
この方が
私たちの心に思わせて下さる
「父である方」の御思いを
実行していく
新しい生き方が
始まっているのだそうですね。
 
今日も。
 
イメージ 1