どちらの霊を、わが岩として生きていきましょうか。

主は
私の岩、砦、逃れ場。
サムエル記下22:2
 
 
 
キリストの言葉:
私のもとに来て、
わたしの言葉を聞き、
それを行う人は
皆、
 
岩の上に土台を置いて
家を建てた人に
似ている。
ルカ6:47〜48
 
 (ローズンゲン日々の聖句11/18;月)

 
何を、誰を土台を置く岩とするのか。...
心に映る、どの霊の思いを私の思いとしていくのか。

「主の霊」から来るあの方の御思いが、
心に、精神に書き付けられて、
私たちがその御思いによってを動いていく
在り方が、
岩の上に土台を置いて家を建てることであり、
良い木から良い実が結ばれていくことなのでしょうか。
 
「生まれたときからの私」という
的外れになってしまっている「霊」の思いで、
心を、精神を、そして身体を動かしていくなら、
悪い木からは悪い実が生るしかない
という結果になるということのようですね。
 
「生まれた時からの私」という「霊」から来る思いで、
心(精神)を動かし、
その心によって私の身体が動かされている状態で
イエスが話された言葉を行おうとすることは、
悪い木に良い実を生らせようとすることであり、
砂の上に土台を置いて家を建てようとしてい
ことになるようですね。
(マタイ7:17~27)

「生まれた時からの私」という「霊」は、
イエス・キリストの十字架刑に合わせられて
処刑されたものと
計算し、
 
復活され、天に帰り、御父の右の座に着かれている
派遣して下さる
「聖である霊」と呼ばれる方によって
心に書き付けられる
「御父」の御思いを
採用して、
 
その御思いで
心を、
そして身体を動かしていくのが
岩の上に土台を置くことであり、
良い木に接ぎ木されることであり、
「新しい契約」の在り方
なのだそうです
(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:26~27)。
それを受け取っていきたいものですね。
はっきりと
良い実が実るまでに。
 
今日も。
 
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