わたしを見た者は、わたしを遣わされた方を見る

主は
モーセに言われた。
あなたは
わたしの顔を見ることはできない
人は
わたしを見て、
なお
生きていることは
出来ないからである。
出エジプト記33:20
 
 
 
わたし(イエス)
見る者は、
わたし(イエス)
遣わされた方
見るのである。
ヨハネ12:45
 
(ローズンゲン日々の聖句9/25;水)
 
 
聖なる方を見て、
人間は
生きていることが出来ないのだそうですね。
 
その御父を、
私たち人間に
見える形で現わすものとして、
御子である神が
人間イエスとして
父なる神から遣わされて来たのだそうです
 
 
イエスは、
父なる神を
私たちに
見える形で現わすために、
父なる神から遣わされてきた
御子なる神なのだそうです。
 
使徒ヨハネは、
このあたりの消息を、
「初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、
初めに神とともにおられた。
すべてのものは、
この方によって造られた。
造られたもので、
この方によらずにできたものは
一つもない。」
(ヨハネ1:1~2)、
 
 
「ことばは人となって、
私たちの間に住まわれた。
私たちは
この方の栄光を見た。
父のみもとから来られた
ひとり子としての栄光である。」
(ヨハネ1:14)
と記しているのだそうです。...
 
そして、
この方は、
行動だけでなく、
口から出ることばの一つ一つまで、
自分から話しているものはなくて、
「父がわたしに言われたとおりを、そのままに話している」
(ヨハネ12:50)
方なのだそうです。
 
この方は、
御父が言われていることが
ストレートに分かっている、
御父と一つになっている方なのですね。
 
そして、
御父が願っておられたとおりに、
私たち人間の罪を一身に背負って
十字架刑に架かり
 
私たちが受けるはずの罰を
全部受け取って下さって、
私たちの救いの道となって下さったのだそうです。
 
「この方を受け入れた人々、
すなわち、
その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与え」下さる
(ヨハネ1:12)
ために、
 
「子として下さる御霊」
(ロマ8:15)
お遣わし下さり、
 
この御霊と呼ばれるお方によって、
私たちの心にも、
イエスと同じように、
御父の御思いが思われるようになり
(エゼキエル36:26~27)、
 
御父がしようと思われることを
私たちが
するようになり、
 
私たちも
イエスと同じように、
御父を現わす者となるのだそうですね。
 
今日も。
 
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