御名を呼んでいきたいですね。あの方の。

「私には罪がない」とか
「主の怒りは私から去った」と
お前は言う
 
だが、見よ。
「私は罪を犯していない」と
言うなら
お前は裁きの座に
引き出される。
エレミヤ2:35
 
 
悔い改める
1人の罪人については、
 
悔い改める必要のない
99人の正しい人についてよりも
大きな喜びが
天にある。
ルカ15:7
  
 
(ローズンゲン9/24;火)
 
 
罪と言っても、
人のものを盗ったり、
人を憎んだりすることは
分かりやすいですね。
 
けれども
あの方は言われます。
「おとめが自分の飾り物を忘れ、
花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。
それなのに
わたしの民が
わたしを忘れた日数は
数えきれない」
(エレミヤ2:32)
と。
 
 
善悪を知る者となった私たち、
神の一人のようになろうとする者。
全知、全能、永遠なる者であろうとし、
 
あの方の御座よりも
分の座を設け、
 
あの方に
命令する者になろうとする者。
 
 
そこから、
完璧であろうとして、
そうでない自分を責め、
自分の至らなさや敗を
赦さず、
 
いつまでも
自分で自分を責め続ける状態が
起こって来るのでしょうか。
 
至らない自分
認められず、
 
素直に
「ごめんなさい」と
あやまれない
たち。
 
あの方は、
そのような私を充分ご存じの上で
おっしゃっておられるのだそうです。
 
「そのままで帰っておいで。
お風呂もわかしてあるし、
新しい着物も用意してあるよ。
新しい靴も、
わたしの子どものしるしの指輪もね」
と。
 
私たちが、
「ごめんなさい」のひと言をもって
帰って行くなら、
 
の方にも天使の間にも
大きな喜びが
起こるのだそうです。
 
日々刻々、
はずれに気がついたら、
即、
御名を呼んで行きたいですね。
 
日も。
 
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