来てくださるのだそうです。私たちにも、力と愛と思慮分別の霊が。

うろたえてはならない。おののいてはならない。
 あなたがどこに行ったとしても
   あなたの神、主は共にいる。ヨシュア記1:9
 
神は、臆病の霊ではなく、
 力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです。Ⅱテモテ1:7
 
       (ローズンゲン日々の聖句2/20;土)
 
 こちら側はうろたえていても、おののいていても大丈夫。
天の神、主が共にいて下さるのだそうですから。
こちら側は、恐れおののきながらでも、お言葉に従って一歩踏み出してみるなら、主が御力を現し、いつしか、問題を通り過ぎさせてくださるのだそうです。
 私たちに代わって、私たちの罪のすべてを背負って十字架刑での処刑を受けてくださり、墓に葬られ、三日目に墓より復活され、天の父である神の右の座に帰られたイエス。
そのイエスが受け入れる者に派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方。
その方は、力と愛と思慮分別の霊なのだそうですから。
この方が、いつも、いつまでも、受け入れる者と共にいてくださり(ヨハネ14:16)、
御父の御思いによって、導いてくださるのだそうですから。
 
 今までの、「生まれたときからの霊」から来る思いは、死んでしまっている者から来た思いと認めて、横においておいて、新しく来られた「聖である霊」が心に書き付けてくださる、御父の御思いを、私の思いとして、この思いによって行動していくようにしてくださるのだそうですね。「聖である霊」と呼ばれる方が。
今日も。
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みなしごの父、やもめ、孤独な人を心にかけておられる方

神はみなしごの父となり、
  やもめの訴えを取り上げてくださる。
 神は孤独な人に身を寄せる家を与え、
   捕らわれ人を導き出して清い所に住ませてくださる。詩編68:6~7
 
イエスの言葉:
はっきり言っておく。
  わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
   わたしにしてくれたことなのである。マタイ2540
 
      (ローズンゲン日々の聖句2/19;金)
 
 みなしごややもめ、孤独な人のことを心にかけていて下さる方。
空腹な者に食べ物を与え、渇いている者に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の者に着る物を与え、病気の者を見舞い、牢にいる者を訪ねて欲しいと思っておられる方のようですね。
それらの、最も小さい者、目に入らないような、気にもとめられないような小さい者の一人にしたことを、御自身にしてくれたこととして見ていて下さる方なのだそうです。
 
 私たちは、とかく、強い者、立派な者、力のある大きな者のほうに心が向く者ですが天の神、主は、、「聖である霊」と呼ばれる方によって、このお心を私の心にも来させ、同じ心になって歩んで欲しいと願ってくださっているのだそうです。
喜びをもって楽しみながら。
今日も。
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国々に主の栄光を語り伝えよ。そのくすしい御業を。

国々に主の栄光を語り伝えよ、
  諸国の民にその驚くべき御業を。詩編96:3
 
パウロとバルナバは、
 神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、
  異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。使徒14:27
 
       (ローズンゲン日々の聖句2/18;木)
 
 新しい歌を主に歌え。
全地よ。主に歌え。
主に歌え。
み名をほめたたえよ。
日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
まことに主は大いなる方、
大いに賛美されるべき方(詩篇96:1~4新改訳)
 
 西暦45年頃のこと、パウロとバルナバは、シリヤのアンテオケにある教会から派遣されて、キプロス島に、そして小アジア(現在のトルコ地方)に、イエスに関わる良い知らせを伝える旅行に出かけました(パウロの第1次伝道旅行)。
 そして、アンテオケに帰って、教会の人々を集め、神が彼らと共にいて行われたすべてのことと、神の契約の民、ユダヤ人以外の人々にも信仰の門を開いてくださったことを報告したのだそうです。
 
 私たちに代わって、私たちの罪を背負って、罪人として十字架刑での処刑を受けてくださり、ローマ兵によって槍で突き刺されて死亡していることが確認され、墓に葬られ、、三日目、日曜日の早朝、復活され、40日にわたって何度も弟子たちに現れ、御自分が復活していること、確かに、復活の新しい身体で生きていることを見せたイエス。
 
 そのイエスが、いよいよ、天の父である神の右の座に帰られるとき、弟子たちに言い残していかれた言葉、
エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバブテスマを受けます。
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」との言葉が実効し始め、2000年を経た今日にまで続いているたのだそうです。
 
 あのときのパウロとバルナバのように、私たちも「聖霊に遣わされて」(使徒13:4)、御思いのままにそれそれの場に出て行くなら、帰って来て、「神が彼らと共にいて行われたすべてのことを報告する」一日を歩ませてくださるのだそうですね。
あの方は。
今日も。
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栄光の座に共に座らせていただけるのだそうですね。信頼してついていく者は。

主は、海の中に道を通し、

 恐るべき水の中に通路を開かれた方である。イザヤ書43:16

恐れることはない。

 ただ信じなさい。マルコ5:36

      (ローズンゲン日々の聖句1/18:月)

 海の水を分け、

エジプトから出て来た民を、乾いた地を行くように渡らせられた方が仰せられるのですね。

「先の事どもを思い出すな。

昔の事どもを考えるな。

見よ。わたしは新しいことをする。

今、もうそれが起ころうとしている。

    ~~~

わたし、このわたしは、わたし自身のために

あなたのそむきの罪をぬぐい去り、

もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43:18~19、25新改訳)と。

 そのために、父である神と呼ばれる方は、

独り子である神と呼ばれる方を、人間イエスとして人の世に生れさせられたのだそうです。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、

輝きもなく、

私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、

悲しみの人で病を知っていた。

人が顔を背けるほどさげすまれ、

私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、

私たちの痛みをになった。

だが、私たちは思った。

彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、

私たちのそむきの罪のために刺し通され、

私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、

おのおの、自分かってな道に向かって行った。

しかし、主は、私たちのすべての咎を

彼に負わせた。

彼は痛めつけられた。

彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれて行く羊のように、

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、

彼は口を開かない。

しいたげと、裁きによって、彼は取り去られた。

彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。

彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、

生ける者の地から断たれたことを。

彼の墓は悪者どもとともに、設けられ、

彼は富む者とともに葬られた。

彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが」(イザヤ53:2~9)。

 イザヤによって預言されたこの預言のとおりに、

700年ほど後に生れたイエスは、

人々からのけ者にされ、さげすまれ、

ローマからのユダや総督ピラトの裁判においても、

ピラトが不思議に思うほどに、ひと言の抗弁もせず、

黙ってこれを受けられ、

十字架刑で処刑され、

死亡確認のためにローマ兵によって槍で突き刺され、

ユダヤ最高議会の議員の一人であり、富む者であった、

アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られたのですね。

 このイエスに信頼していく者は恥を受けることはないのだそうです。

三日目に墓より復活し、

40日にわたって何度も弟子たちに現れて教えられ、

弟子たちの見ている前で、

オリーブ山から天の御父の右の座に帰られた

イエスは言っておられます。

「勝利を得る者、わたしに信頼してついて来る者を、

わたしとともにわたしの座に着かせよう。

それは、わたしが勝利を得て(御父の御思いに従い通して)、

わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」(黙示録3:21)と。

今日も。

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善い業に溢れさせてくださるのですね。栄光の御業に。私たちも。

あなたの上には主が輝き出で、

   主の栄光があなたの上に現れる。イザヤ書60:2

        (1/17 の週の聖句)

わたしの民を良い物で飽かせると、

  主は言われる。エレミヤ書31:14 

   

神はあなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、

あらゆる善い業に満ちあふれるように、

あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることが

おできになります。Ⅱコリント9:8

         (ローズンゲン日々の聖句1/17;日)  

 良いもので飽かせ、

いつも、すべての点で、すべてのものに十分に満ち足らせ、

あらゆる善い業をさせてくださり、

あらゆる恵みでもって、

私たちを満ち足らせようと思っていてくださるのですね。

天の神、主と呼ばれる方は。

 だから、私たちの側には何もなくても、

何もないまま、手ぶらのままでも、

一歩踏み出して行くとき、

あの方の側の御業が現れていくのだそうです。

私たちを通して、天の神、主の栄光が現れるのだそうです。

 十字架に架かられ、復活し、天の御父の右の座に着いておられる、

イエスが派遣してくださる、聖である霊と呼ばれる方。

この方をお迎えするなら、

この方が私たちの心に

父である神と呼ばれる方の御思いを置いてくださり、

導いてくださるのだそうですから。

この新しい週も。

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愛に渇いておられるのですね。私たちに対しての。

あなたには、

 わたしをおいてほかに神があってはならない。出エジプト記20:3

だれも、

 二人の主人に仕えることはできない。マタイ6:24

        (ローズンゲン日々の聖句1/16;土)

 妬むほどに愛して下さっているのだそうです。

独り子の命を与えて下さるほどに。

妬むほどに愛しておられる方、聖である霊と呼ばれる方を私たちに派遣してくださるほどに

心通じあう関係になってほしい、

思いの一つ一つを語り合い、見せ合い、知らせ合って、

互いに、全部、知り尽くしているほどに、一つ心になって欲しい、と。

だから、自分だけに目を向けていてほしいのだそうです。

栄光の御座を共にするまでに。

今日も。

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心のすべてが明らかにされる、その日、

主よ、あなたは私をご存じです。
 私を見て、
  あなたに対する私を、究められたはずです。エレミヤ書12:3
 
主が来られるまでは、先走って何もさばいてはいけません。
 主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、
  人の心の企てをも、明らかにされます。
 そのとき、おのおの神からおほめにあずかります。Ⅰコリント4:5
 
       (ローズンゲン日々の聖句;金)
 
 私の心の思いのすべてを知っておられ、明らかなのだそうですね。あの方の前には。
御自身に対して、私の心がどうであるのかも、究めておられる方。
私の心のすべてが明らかにされるその日、
おほめにあずかるのか、顔をしかめ、そむけられるのか。
 
 イエスは、私たちの負うべき責任を、残りなく、御自身に背負ってくださり、
私たちを御自身の義と栄光と誉れで包んでくださるのだそうです。
 
すべてが明らかにされるその日にも、
今日も。
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